(2019年2月4日 投稿分)
すごいものを観た。
しばらく、トラウマと言えるほど引きずってしまいそうなものを観た。
「紙の上に並んだ文字から舞台が立ち上がっていく様」を想像する・体験する楽しみを、と、事前に公開されていた戯曲を、私は読んでからこの舞台を観た。
それは、私の頭で想像していたものを遥かに超越する存在感をもって目の前に現れ、私を打ちのめした。
ある夜、空が緑色に輝いた。人類史上初の天体ショーだったとニュースのアナウンサーは言う。それを見たとき、同じアパートに住む人たちは、それぞれにその光のことを口にする。が、それはすぐに、なんでもないことのように過ぎ去る。
しかし、それからだ。ゆっくりとも言えないスピードで、あらゆることがおかしくなっていく。
並々ならぬ大雨が降り出し、アパートの近くにあったかどうかも分からない川の氾濫する可能性のために避難を指示される。
気づけば足が馬鹿になって動かなくなり、考えていることは誰もが(舞台の上の人にも観客にも)見られるようになり、それぞれに確実に異変が起こっている。
はじめから違和を感じていた人も、そうでなかった人も「これはおかしい」とはっきりと感じたときには取り返しのつかないほど、おかしくなっている。
私が範宙遊泳を観たのは2年前、新宿眼科画廊でやっていた『範宙遊泳の宇宙冒険記6D』と『タイムライン』だった。
そこから、『その夜と友達』『午前2時コーヒーカップサラダボウルユートピア』『もうはなしたくない』『# 禁じられたた遊び』と観たが、範宙遊泳の舞台は、時間も場所も、舞台のあちら側もこちら側も、ヒョイヒョイッと軽やかに飛び越えてしまうものという印象を抱いていた。
しかし、今回の『うまれてないからまだしねない』は、違った。時間軸こそ行き来すれど(それもスクリーンに”25ねんまえ”のように表されることがあった)、場所は大掛かりな舞台装置や小道具で、はっきりと違う場所に変わったことが示された。
俳優が、セットの端を掴んでぐるりと回すとアパートの屋外と室内、そこに幕を下ろして、ポールを立ててロープを張れば避難所。場所の転換が明確に表されていた。そうした演出のためか、今回は、「舞台は舞台、こちらはこちら」と、いつもよりはキッパリと境界が引かれていたように感じた。
だけれど、それでも、昨日の千穐楽を観てから、この舞台のことが頭から離れなくなってしまっている。
それはきっと、舞台上にあったすべての存在感・説得力の強さだろう。
境界はあったはずなのに、感情移入して、まるで自分が体験し感じていることのように辛く悲しく、それでも環境や状況に抵抗し希望を探しているように感じたのは、俳優たちの体や表情、言葉、そして舞台装置、小道具、衣装、メイク、照明、音響…すべてが切実に、必死に、彼らのおかれている状況をこちらへ伝えていたからなのだと思う。
圧倒的で、もうどうしようもない絶望の中で、各々が希望や安らぎを求めて動いた。
絶望を恐ろしく思う気持ちと、彼らの絶望への抵抗によって得たものの美しさに、涙が止まらなかった。
5年前、2014年に上演した作品のリクリエイションだと言うが、5年前にこの作品を観たら、私はどう思っただろう。今の方が、より生々しく、へんにリアリティをもって迫ってきたように思える。
うまれなかったひとへも、うまれたひとへも、これからうまれるひとへも、とても悲しいけれど、愛を込めた作品であるように感じた。
きっとしばらくは忘れられない。