(2019年11月9日 投稿分)
きのう、荻窪から少し歩いたところにある本屋 titleで開かれた「いしいしんじさんと『マリアさま』をきく夜」というイベントに参加した。大好きな物語を書く人 いしいしんじさんの、新しく出た短篇集『マリアさま』について話すトークライブと、その短篇1つひとつのテーマソングのようなものをいしいさん自身が選んだ “サウンドトラック”から、数曲を蓄音器で聴くというイベント。
『ぶらんこ乗り』を読んだ小学生のころからずっと好きな作家だけど、いしいさんが登壇するイベントへの参加は初めてだった。めちゃめちゃ関西弁で喋る、軽やかな方だ。
そのイベントでいしいさんが話していたことが、このまえ自分のバンドの主催ライブに出てもらった絵描き 町田紗記さんとライブの後日、焼き鳥屋で話していたことと重なるところがあって合点がいったり、ああそうかと気づくところがあった。
ということを昨晩、家に帰ってすぐに書くつもりだったのに、noteに雑なメモ書きだけ残して別の作業に移ってしまった。そのとき考えていたことや興奮を思い出しながら、整理しながら書くのは難しい。でもこのあとに触れる「保存のこと」を考えれば、できないことではないのだろう。
いしいさんの「きょうバスキアを見に行ったんだ」という話。子どものころ、たくさん絵を描いていたいしいさんにとって、バスキアはスターのような存在だという。初めて生のバスキアの絵を見たいしいさんは、衝撃を受けて、長い時間立ちつくしてしまったそうだ。
それは、バスキアの絵から、描かれている対象以外のもの、その時代や空間、時間までもが見えてきた衝撃。いしいさんは、ラスコーの洞窟壁画を描いた人も、そういう、描く対象のものをも見て描いていたんだろうと話す。
絵にその場の様々なものをそのままとじこめて保存する力があるのだと気づいたのは、ついこの前、まさに紗記さんに絵を描いてもらったときだ。自分たちのライブの40分間、わたし達を対象に描いてもらった絵は、そこで流れていた音楽だけじゃなく、舞台上のアイコンタクト、MCで話したこと、フロアに見えるお客さんの表情が描かれていた。まだそれを聴けていないが、ボイスレコーダーで録音したライブ音源よりもその場の音、空気を記録しているように思う。録音された音源は音のみを記録している。
そして蓄音器でいしいさんのコレクションであるSP盤を聴く。はじめに流したエルヴィス・プレスリーの「ハウンドドッグ」でもう、吹き飛ぶくらいしびれた。音質なんて話をしてしまえばもちろんCDで聴くものに劣るけれど、そういう話ではない。震えになって音として伝わってくる空気が、なにか違うのだ。
SP盤はその場にある空気をそのまま溝に刻み込むのだといしいさんは言う。それを聞いたから、余計にそう思ったのかもしれないが、蓄音器から音楽が流れている間は、たしかに目の前にピアノ奏者がいて、ホーン隊がいて、シンガーがいて歌っていた。鼓膜にぶつかる空気は、半世紀前、1世紀ちかく前のものだった。
同じように、そのSP盤を録るためにマイクを立てていた空間には、本屋titleの前をごうごうと音を立てて走る大型トラックの振動が伝わっているのだろうと思う。
こうして聴くと、SP盤がつくられ聴かれていたときも「いま」なのだろう、といしいさんは言う。絵と同じように、その場所、時間をそのままとじこめることのできる音があるのかと驚いた。SP盤の仕組みを聞いて、それはSP盤だからこその音と空気の保存なのだとわかってはいるが、形に依らず、こうして記録することができる方法はないのだろうか。
いしいさんは、小説もそうだ、とも言った。ことばをつかって、ある場所の空気や時間をそのままに切り取ることができると。
焼き鳥屋で、紗記さんは小説を書く友人に「絵はいいなあ」と言われる、と言っていた。ことばでひとつの場所と時間を切り取ろうとすると、そのはじめから終わりまでを書かなくてはいけない。絵はその1枚にぜんぶがおさまるから、というようなことだそう。確かにそうなのかもしれないけど、あらゆることを1枚のなかにとじこめるのってそれはそれで難しいし大変なことだと思う。
わたしは物語を書くことはほとんどないが、もし自分の書いた文章が半世紀あと、1世紀あととかに読まれることがあって、そのときにこの気温や湿度、体の感覚みたいなものは、読む人の網膜から伝わっていくのだろうか。
前後するが、トークライブの冒頭で『ぶらんこ乗り』を書いたときの話を聞くことができた。
そのころ、いしいさんが向かっていた机の前に貼っていたのは “明るく書く”と書いた紙だったそうだ。そのころから今もずっと変わらずに考えているのは、死は悲しいものではない、そのなかにも明るさは見えるということだと言う。
『ぶらんこ乗り』は、どこかに行ってしまった弟のことをお姉ちゃんが思い出しながら書いているおはなし。場所がどこであろうと、こっち側とあっち側だろうと、その隔たりをヒョイと飛び越えるのは同じ。そうやって場所も時間も越えられるのは、うんと高いところまで離れて見れば、その点同士は重なるくらいのところにあるから。同じ地面。地続き。遠くから見れば同じ「いま」のこと。そういうことを、いしいさんは繰り返し話していた。その目線で書かれているから『ぶらんこ乗り』は悲しいことが起きても温かくて優しい物語なのだ。
話があちこちに飛んでしまったが、自分のための、この日の空間をそっくり思い出せるような記録の文章になれば良いと思う。