(2019年12月15日 投稿分)
淺井裕介さんという、絵具以外の画材をつかって絵を描く人がいる。つかうのはマスキングテープだったり、泥だったり、小麦粉だったりする。
初めて淺井さんの絵を見たのは2017年9月、卒業式のあとに行った「そこまでやるか 壮大なプロジェクト展」だった。もう失われた学割のありがたみを噛み締めたのもこの展示だ。

壁一面に描かれた絵には、無数のかわいらしい人や動物が描かれている。近づくと乾いた泥のひび割れや、泥に混じった大きな砂つぶのざらつきが見える。展示スペースの小さなテレビでは、淺井さんとスタッフの方々がこの絵を描いているところを定点カメラで撮ったものをエンドレスで映していた。
その絵の愛らしさ、いつかは風化してぽろぽろと剥がれてしまうような素材を使って作品をつくっていること、なにより、絵から感じられる生命力みたいなものからパワーをもらったような気がして、淺井さんの絵に心をひきつけられた。
2019年11月13日、花屋でのバイトを終え、好きなバンドのワンマンライブを見るために吉祥寺へ向かうが、着いた時点で開演までまだ1時間ある。そういえば、と思い出し、同じ吉祥寺で開催中の淺井さんの個展に行くことにした。
会場のArt Center Ongoingは、1階は食事もできるカフェスペースになっている。強烈な暖かさを与えてくれる石油ストーブの上には鍋が置かれていて、何かを温めている様子。甘いけれど、スパイスの利いた匂いがする。
受付を済ませて展示スペースのある2階へ上がる。すると目の前にある大きな絵よりもまず、独特のにおいと床板を踏んだときの大きな軋み音に意識がいった。
個展「野生の星 2」の作品づくりに使われた画材は鹿の血だった。視覚よりも先に嗅覚がそのにおいを感じたのだ。そのにおいを吸い込み、吐き出しながら、受付でもらった淺井さんの文章『血を受け取る』を読む。作品を描いた鹿の血をもらいに行った日のことが書かれていた。淺井さんが同行した猟師と猟犬のこと、鹿を狩るまでのこと、解体し、血をもらうときのこと。以下、その文章の一部を引用。
心臓が取り出されそれを猟犬が美味しそうにバキバキ食べる、引き継がれてやく野生。
解体の現場、思っていたよりも血だらけにならないのだなと思いつつも、実際に目にする出来事は驚くこと以上に納得があり、学びがある。山の歩き方、チームで動くこと、犬たちとの交流、命の在り方、手触りと嗅覚、森の中の決意と約束。
Art Center Ongoing「野生の星2」にて「血を受け取る」


絵を見ながら深呼吸をする。窓が開いているから空気が冷たい。いつも以上に、たくさんの命が描き込まれているように感じる。泥のようにヒカヒカと乾いた感じはない。
先に少し書いたように、淺井さんの絵にはいつもたくさんの生きものが描かれていて、命の存在を強く感じていた。
今回の「野生の星 2」は、より強くはっきりとその存在があった。明確に「命をいただいて描いている絵」だったからだろう。もちろん、これまで画材として淺井さんがつかっていた泥の中にも、その泥の上にもたくさんの命があったのだけど。
ひんやりとした空間でふだん嗅いだことのないにおいを感じながら絵を見て、これまでに自分の体のなかに取り込んだ命のことを考えた。絵を見ている眼球にもにおいを嗅いでいる鼻にも音楽を聴く耳にも、何かをかく手にも自分でないほかの命が姿を変えてつまっている。当たり前のことなのだが、そのことに対する感覚がぐーっと開いたような気がした。
先週観たダンスカンパニー・Baobabの本公演『ジャングル・コンクリート・ジャングル』を思い出す。アテレコでダンサーの動きに台詞がつく。とたんに、ダンスが日常に、会話に溶け込んで見えてくる。生活と踊りの結びつきを感じる。
生きていることが何かを表現することと繋がっているのなら、表現することと命を取り込むことだって繋がっている。単純な方程式に落とし込んでしまったが、そうなのだと気づく。
淺井さんの絵から、いままで以上に命の存在を感じて、その力をもらって、1階のカフェスペースで温かいお茶をいただいて、ギャラリーをあとにした。感覚はまだ開いている。ふとしたときに、あのにおいを思い出している。