帰りのホームでコーラを飲む

(2020年10月17日 投稿分)

先週、『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を観た。当日、バイトの最中に思い立って観に行った。ら、大ミスをして最前列のやや端という普段なら絶対とらないような席をとってしまっていた。(首は痛くなったが没入感は抜群だった。画面の歪みもそこまで気にならなかった。でももう少し俯瞰で観たかったよな)

とにかく音と映像が美しい。こればかりは映画館ならではの視聴体験だと思う。水の描かれ方がとても綺麗だった。

※以降ネタバレあり

物語の序盤から、アニメ版に登場したアンとその母・クラーラの姿と手紙が現れて泣いてしまった。あの話、とても好きだ…。
だが全体を通しては首を傾げるところも少なくなかった。涙は止まらなかったけれど。

私は映画を観るまでこの作品を、人のつかう「ことば」の物語だと思って観ていた。ヴァイオレットが戦場でのギルベルト少佐との別れの間際に言われた「愛してる」の意味を考え続け、ドールとして依頼人の気持ちを「ことば」に乗せて手紙を書く。
「ことば」が人の心を温めたり、慰めたりする花束のようにも、とある点に縛りつける鎖のようにもなるということが描かれている物語だと思っていた。
今回の劇場版では、ギルベルトの「愛してる」という「ことば」はヴァイオレットを戦争の記憶、そしてそれを振り返る時に抱く様々な罪の意識へと縛りつける鎖のようだとは感じた。けれど、花束としての「ことば」は物足りなく感じてしまったのだ。

これは結局「愛」の物語 に着地するのか?してしまうのか?そう思いながら観ていた。
ギルベルトの「愛してる」に対してヴァイオレットが「私も」と応える物語。そりゃあ映画本編では「私も」なんてストレートに応えてなどいない。それまでたくさんの依頼者の感情や思いを「ことば」にしてきたヴァイオレットが「ことば」を失い泣きじゃくる。同じく嗚咽するギルベルトがヴァイオレットを抱きしめる。あの場面は観ていて喉の奥がクッとなった。


だけど、それなら、ヴァイオレットが「ことば」を大切に、慎重に紡ぐ様子を映画作品の中でももっと見せてほしかったと思う。
難病にかかり自分の死期を悟った少年・ユリスは、普段は素直な気持ちを表すことのできない両親と幼い弟へ宛てた手紙の代筆をヴァイオレットに依頼する。ユリスが息を引き取った後に、ヴァイオレットがユリスに代わり書いた手紙が読まれる。その中身からは、アニメ版で感じたような 手紙に込められた人の心の機微をあまり感じられなかった。さらっ…としていた。泣きどころを求めたいのではない。ヴァイオレットは、人の心を理解するのに時間とターン数を必要とするからこそ依頼者と真剣に向き合い、丁寧に「ことば」を打ち出していたのではなかったか(病室でのユリスとヴァイオレットとのやり取りはとても好きだった。これぞヴァイオレットという感じ)。


そうした慎重さ、丁寧さを欠いたまま、ギルベルトの「愛してる」に頭を占められ続けるヴァイオレットを観ていて歯がゆく感じてしまった。愛も人の中にある感情のひとつだろうから、そしてそれが「ことば」に表しにくいものだからあのような描写になったのだろうとも考えられる。だけど、それでもさ…。この作品にはほかにもたくさんの感情が存在しているのに、そこのみにググッと焦点が絞られてしまっていたことが歯がゆかった。いや、絞らないと収集がつかなくなってしまうのかもしれないけど…。

子を案ずるかのごとくオロオロしたり怒ったりするホッジンズ社長の言動や、それを苦笑まじりに見守るカトレアの視線、そして戦時中の自らの振る舞い、そこからさらに遡り、少年時代に自分がとった弟・ギルベルトへの態度、あらゆる悔いを覗かせるディートフリート大佐。
彼・彼女たちの細かな感情の動きやそれに伴う表情の変化/仕草は、自分がアニメ版を観ていた時はそこまで注目していなかったところだったと気づいた。そうした場面を思い返すともう一度観たいなと思う。

グッとくる場面も台詞もあったけれど、少しだけぐぬぬ…と思い帰った。自分のイメージしていた感じと違った、というだけの話なんだろうけど。
でも映画館で観たのは本当に良かったなぁ。映画館いいなと改めて感じた。

コメントを残す