劇団普通『病室』のこと

(2019年9月29日 投稿分)

もう毎日書く習慣がすっかり抜け落ちてしまった。その分、ツイートが増えている気がする。まとまった文章を書くのも、短い文章をポンポン書くのも好きなんだけれど、たまに長い文章をコンスタントに書かなくなったことに勝手に言い訳をつけようとしている。そしてなんとなくそれが情けなくなる。

きのう(おととい)は、劇団普通『病室』を観た。好きな役者さんが所属している団体だし(今回の公演には出ていないが)、5月にあった現場でお世話になった役者さんが出ている公演だから観に行った。

9月に入ってから、あまりお芝居を観に行かなくなったし、観に行ったとしてもあまりいい感想を抱かなくなっていて、自分はずっとバンドのこと(レコーディングがあった。今も自主企画に向けて動いている)や、お笑い(元々好きだったけど、突然大ブームが到来した。ここ最近は頻繁にライブに行っている)に興味がまったく移ってしまったのだと思っていた。だから『病室』が2時間超えの公演だと知ったときは、正直、尻込みした。

バイトを終え、スタジオ空洞へ行く。ついこの前、ヒノカサの虜『ヘブンズサイン(作:松尾スズキ)』『睦草』を観たばかりの場所(どちらもとても良かった)。入ると、もう全然違う空間だった。劇場の不思議なところだと思う。
舞台には、木で造られた裸の4つのベッド、丸椅子、そして本物の車椅子があった。鏡が貼られた壁面には薄いカーテンがかかっている。これだけなのに、これだけで病室のあの厳格に清潔な匂いを思い浮かべた。

公演が始まる。舞台は茨城で、俳優たちはみんな茨城弁を話す。わたしは千葉県の成田市の生まれで、標準語にすっかり飲み込まれて方言がない生活を続けているけれど、舞台で話していることは全部すんなり意味がとれた。
4つのベッドにそれぞれ割り振られたのは、血栓症(全員がそうかはわからなかった)で体に麻痺が残ったりして入院している男性4人。4人ともが、子どもがいる(いてもおかしくない)年齢だった。4人にはそれぞれ、家族がお見舞いに来る。担当の看護師やリハビリをする理学療法士もいる。
その空間で展開されるのは、彼ら4人とその家族の会話だけだ。急に容体が悪化してどうこうということもない。余命が迫っているからどうこう、ということもない。音響もなく、照明も大きな変わりはなく、ただただ会話が続く。たまにその家族だけの場面、その4人の「父ちゃん」が元気だった頃の家族の場面が差しはさまれる。
東京へ、電車に2,3時間乗れば着くような地方に住んでいる人たちの、東京への憧憬まがいの感情やコンプレックスのような感情。家族が東京へ出て行ってなかなか帰ってこない家庭(わが家もそう)。ぶっきらぼうな口調で他人を不躾に詮索する心根は優しいおじさん。近隣の家族事情になぜかやたら詳しい母や祖母。そういうことを話す、希釈されまくった会話と時間。全部が「わかる」だった。描き出し方がえげつなく精緻だ。
公演の表題である「病室」にある、気づまりな空気と、蔓延する平和さと、相部屋でつい聞いてしまうよその患者と見舞客の会話も見事だった。今年のはじめ、家族が病気をして入院していたから暫くの間、病院通いをしていた。そのときに肌に触れていたもののほとんどが舞台にあった。演劇ではあったけど、長回しの映画を観ているようでもあった。時計や時間のことを忘れていたまま、2時間あまりが経ち上演が終わった。

人物の描写が、本当に細かく、正直だった。表面を美しく整えただけでないことがはっきりと分かった。レイヤーのように、その人物の様々な面や時制が重なって描かれていた。
そして、そうして描かれた人物を過不足なく、力むことなく自然に表している俳優しかいなかった。だからこそ、環境や状況と自分との親密さに先に意識がいったのだと気づいた。舞台ってきっとそうなんだろうけど、全員が「その人」として居た。その極く自然なあり方にとても興奮し感動した。
その興奮のまま書きたくなって書いたけれど、あとで書き直したくなるかもしれない。でもけさ再読を終えた『夏の朝の成層圏』を思い出すと、余計な改変ねつ造はしたくないなと思う。

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